パノラマの庭園空間で永遠をシンクロニシティする「トムは真夜中の庭で」の考察

こんにちは。時間が経つのはあっという間ですね。特に楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいます。さてそんな時を題材にした児童文学「トムは真夜中の庭で」から時間について考察していきます。

「トムは真夜中の庭で」の時は一般的な時間概念とは異なります。トムとハティが夢をシンクロニシティ(同期)をすることで新たな時間空間へアプローチしその時間空間を体験したトムはそれまでただ漫然と捉えていた時のパラドックスに気づき、やがては永遠と自我や意識への言及などを行います。これと似たような指摘はアウグスティヌスも行っています。

 

アウグスティヌス『告白』第11巻第14章

「いったい時間とは何でしょうか。誰も私に尋ねないとき、私は知っています。尋ねられて説明しようと思うと、知らないのです。」

従がってこのノベルは時という題材を取り扱った興味深い内容となっており、少年と少女の成長ストーリーを一般的な時間概念とは大きく異なる時間空間によって展開し意識と永遠の領域にまで踏み込んだ文学です。そこでこの「トムは真夜中の庭で」を成長ストーリーとしての基本的なあらすじ、トムの時間のパラドックスへの疑問と庭園の消失、それらを踏まえて自我(人生)と時間(永遠)人間の意識の重要性について考察していきたいと思います。

少年少女の成長ストーリーとしてのあらすじ

 

この大変有名な児童文学は第一次世界大戦後の1958年頃のイギリスが舞台です。1章から16章まで少年トムは地元で麻疹が流行ったために低地で暮らすグウェンおばさんのアパートに避難させられます。退屈な日々に「ここから逃げ出したい」という気持ちを募らせていたトムとそのアパートに住むバーソロミュー夫人(ハティ)の「楽しかった庭園の日々に戻りたい」という夢がアパートの時計が13時を打つと現れる真夜中の庭園でシンクロニシティを起こします。
16章でハティは林檎の木から落ちることによって広い世界を知り大人になることを決意します。

 

トムは真夜中の庭でぺージ223

ハティの話し方にトムは子供だけれども、自分はもうそうではないというような調子があるのに気がついた。

 

聖書のエデンの園になぞらえた庭園の林檎の木からの落下を通じて庭園という子供のフィールドにいつまでもいられないとハティは悟りました。ここから大人のハティも登場するので女子は成長が早いというごく一般的な成長とも符合します。

こうして外の世界でも一緒に遊ぶようになったハティとトムですがあえなくシンクロニシティは終わり、おそらくは1875年頃の出生で現在83歳(推定)のバーソロミュー夫人こそがハティ本人であるとトムはバーソロミュー夫人の瞳を見て悟ります

退屈していたトムと不幸な子ども時代を送ったハテの夢が庭園を通じて同期することで起きた夏休みの不思議な出来事でした。

 

「トムは真夜中の庭で」の時間の謎

 

 

現在って何だろう

 

さてここからは特殊な時間空間と時のパラドックスについてトムの疑問と共に考察します。

 

トムは真夜中の庭で  ページ91

じゃあ時ってどんなものなのアランおじさん。

 

時間は自我と密接に関係しています。
時間を測るという行為は始まりと終わりという意識を持った観測者があって始めて存在します。つまり時計が成立するには今という自我(時間を測るもの)の意識に依存しているのです。

カント「純粋理性批判」

 

ここからは時間の謎とトムは真夜中の庭でに入ります↓時間に興味のある方はどうぞ。100円ととても安いですよ!