ついカッとなって…経験と物語の狭間で揺れ動く魂の救済大澤めぐみ「彼女は死んでも治らない」

少し遅れましたが新年明けましておめでとうございます。今年からおすすめの本を紹介していきたいと思います。その第一段は我がノベル同好会で一昨々年から注目されていた作家さんの最新作です。大澤めぐみさんの「彼女は死んでも治らない(光文社2019年8月8日発売)」です。おにぎりスタッバーで鮮烈なデビューを飾ったこの作者は、 そのテンポのいい持ち前の一人称を用い感情(経験する自己)と自己(物語る自己)の狭間で揺れうごく繊細な心情を殺されやすいというユニークな着想で描き出したとても意欲的な作品でした。
今作品は古巣であるスニーカー文庫を離れ光文社の出版となっています。ライトノベルの枠を超え活動していく予感も含めて期待の第一作となっていると思います。さて、ライトノベルの王道といえば青春グラフィティと言ってみても、 その潮流とは一味違うこの作品。この作品を①登場人物と物語の進行・②ストーリー展開とテーマ・③①と②を踏まえて違う視点から読み解いて紹介していきます。くれぐれもネタバレを含みますのでご了承を。

殺されやすい運命にある友人を助ける高校生五人の物語

この物語の舞台はとある田舎の学校。ちょっとした閉鎖空間のような舞台で四人の男女が殺されやすい沙紀ちゃんを殺人鬼から守る第1話から第3話までと、真犯人が発覚する第4話とエピローグから構成されています。

主要な登場人物

主人公/羊子。平凡な女子高生羊子には殺されやすい美少女の親友沙紀がいる。殺された沙紀を蘇えらせる為にいつも幼馴染の晃と推理して真犯人を見つけ出している。

羊子の推理の相棒であり幼馴染/ 晃。いつも羊子と沙紀の3人で一緒に遊んでいた幼馴染。

親友/沙紀。羊子の親友である超美少女。いつも羊子に命を救われていいたいけな存在。

語り手は一人称で羊子自身が一話一話を(経験する自己)によって綴ります。一話が完結する度に沙紀についての羊子の思い出話しといった自分の物語が語られる幕間(物語る自己)が挟まれています。

第一話では、洋子が幼馴染の晃とその名探偵ぶりを発揮しながら軽快なテンポで沙紀ちゃんを見事に生き返らせるところから始まります。幕間では沙紀ちゃんとの思い出やその友情を綴ります。

第2話では新登場人物である熊谷乃亜を迎えながらもその軽快なテンポとチームワークは変わらぬまま。

そして、 第3話ここで少し流れが変わります。 流れを変えたのは第二話で登場した乃亜の羊子の不自然さへの指摘。

第3話6月は定番の糸トリック/ 179Pから抜粋

羊子ちゃんって沙紀ちゃんのことを好き好き言ってるわりにはなんかその好きが空虚だよね。 あんまり伝わってこないと言うか。 さきちゃんは本人を見てない感じがすると言うか。 好きにしてはさきちゃんの死体をトイレの掃除用具入れに乱雑に放り込むことには躊躇がなかったりとかなんか行動がちぐはぐだし…好きって感情の話じゃん、普通は。機械じゃないんだもの。 たとえあの状況ではそうすることが一番理にかなっていたのだとしても色々な感情が邪魔をして即座にはそれを選択できないっていうのが人間が本来持っているゆらぎでしょ 羊子ちゃんの好きって感情って言うよりも言葉でしかないっぽくてむしろ自分に言葉でそう言い聞かせているみたいだもの。なんか思考が言語に縛られている気がするよねいや言語で自分の思考をうまくコントロールしてるって事なのかもしれないけど

 

 

これは羊子の物語る自己と経験する自己の間に生じる「認知のズレ」への指摘です。平たく言ってしまうと

『言ってることとやってることが違うよ。』という第三者の指摘によって真犯人は羊子だと発覚する第4話へと急展開を迎えます。

 

沙紀の人間性にも羊子と沙紀の友情にも全く問題が無く、同じ人間である事を示す箇所

彼女は死んでも治らないP157

もちろんさきちゃんはキリストでも神様でもなんでもなくてただ単純に綺麗な顔と体で生まれてきただけどそれ以外は他の人と変わるところがない人間だってことは今では私も理解しているどれだけ顔が綺麗でプロポーションが芸術的に美しくて性格もよくて全然怒らなくていつもニコニコと微笑んでいてその笑顔がこの世のあまねく者を根こそぎ払うほどの圧倒的なよさに満ちていたとしてもそれはただそれだけのことに過ぎない

人間の反応を示した箇所

 

だけどそれだけにすぎないことが時に周囲の人間を大きく狂わせてしまうこともあってさきちゃんには何の非もなくてもただ美しく生まれてしまったということが他人の悪意を引き寄せてしまうこともままあってさきちゃんの人生は常に他者からの強い悪意や害意に満ちた割とろくでもないものになっている

イギリスの作家edith nesbit の『砂の妖精』より

願いを叶えられて美しい子供になった姉妹たちが美しくなった姉妹を見て本能的な反応を覚えるシーン

いつも遊んでいる姉妹の顔があまりに派手ばでしく美しいためつい癪に触ってしまうのだ。

 

 

カミュの異邦人でムルソーは太陽が眩しかったから人を殺してしまいました。

羊子の友人の背中を突き飛ばしてやりたいという何よりも自分のものであっても自分でコントロールできない(認めたくない)反応(経験)は普遍の自己を持っているとして語られる物語とは全く食い違います。明日はジョギングしよう!そう物語る自己は思っても雪が降ったら休んで暖かい部屋でのんびりしてしまうのが反応経験する自己なのです。

 

この人間本来の欲望と良心と友情の狭間で揺れ動く多感で善悪の規範の曖昧な幼少時代から抱えた羊子の複雑な感情こそがこの歪みの正体だったのです。

そしてついに沙紀の美しさへの嫉妬にかられて(それは実に太陽が眩しくて目がくらんでしまうのと全く同じ本能のレベルで起きた)つい殺してしまった(経験する自己)

真犯人は他でもない自分自身だと洋子自身(物語る自己)が認めることで、全てを歪めてきた羊子の認知のズレが修正され正しい方向へと物語は動き出します。

そして罪を償おうと決めた羊子を沙紀が許したことで

二人は本当の友情を手に入れ魂は救済され物語は大団円を迎えます。

沙紀は最後に人間の本能に起因する衝動を赦しました。それは、何度殺されても沙紀を蘇えらせようとする羊子自身の歪みを赦すことでお互いへの本当の友情が培われていたのです。

赦すことで失われたものが取り戻され全員の魂が救済されました。

人の複雑な感情を怒涛の展開で魅せる

以上のことから「彼女は死んでも治らない」は人間の欲望(反応)と物語という意識の狭間で葛藤する人間らしさと成長を描いた作品です。一般的なライトノベルとは違い、人間臭いリアルな登場人物を描くという点で、文学作品とも呼べると思います。第三話で乃亜による羊子の認知のズレへの指摘から怒涛のメタ展開に持ち込むことで読者を一気に目覚めさせ物語りへ引き込みます。

一転、経験と物語の狭間で揺れ動く魂の救済-確率論編-

さてここまで登場人物の感情に焦点を当ててきましたがここで「死にやすい」という確率論から彼女は死んでも治らないを見ていきます。

 

 

例えば、50円のチョコレートで、すごく美味しいのだけれど、職人のうち何人かは下手くそで、その職人のチョコレートにあたるとすごくまずいものがあったとします。

 

倍の100円払うと必ず美味しいチョコレートが手に入るそうです。

 

この時50円でまずいかもしれないチョコレートを買うか、100円で確実に美味しいチョコレートを買うか選ぶなら私なら100円払います。

 

どれだけの確率でまずいチョコレートに当たるかわからない、というのが一番の理由ですが、仮に確率が50%と分かってたとしてもまずいチョコに当たるかもしれないという事で50円のチョコを買うのは躊躇します。

 

確率論的には50%なら期待値は一緒なのですが、確実性があるかないかでは大きく違うのです。

 

なんでこんな話をしたかというと

沙紀ちゃんの死ぬ確率が状態についての考察をしたいからです。

 

人間誰しもいずれは死ぬし、それがいつかは分かりません。つまり小さいかも知れないけど、0でない確率の死の可能性に曝されながら日々生きてるのです。

 

毎日50円のチョコを買って、毎日おいしいチョコを当てており、明日もまたそうなんだろうと思っているだけなのです。でもわずかの確率でまずいチョコにあたる。そのことはあまり意識しないけど、時々は思い出す。今みたいに。生死に関しては100円のチョコは売ってないので避けようもないからです。

 

で、人というか生き物そのものが、そういうものであることは、沙紀ちゃんも一緒で、まずいチョコにあたる確率は多少高いのかも知れませんが、50円のチョコを買い続けなければならないのは皆一緒です。

 

具体的に確率が分かっているなら、人生の月日を計算することもでき、沙紀ちゃんと自分の生命の長さを比較することも可能だが、数字が分かってない以上それも叶わない。結局のところ、今日生き延びて明日も会えるということが必ずしも確実でないということは沙紀ちゃんにしても羊子ちゃんにしても一緒。

 

 

 

だから死にやすい運命であることが真実であったとしても、それそのものにあまり意味はなく、物語の最後で羊子が沙紀から許されたこと、昇が救済され、もう2度と沙紀を復活させる事が出来なくなったことで、羊子、昇、沙紀の人生は復旧し、物語は大団円でいいのです。

 

<参考文献

彼女は死んでも治らない  大澤めぐみ砂の妖精 イーディスネズビット